Sensei 館長紹介

 

 

 

 

新藤藤原磐山

 

 

日本真心流綜合武道連盟 3代目宗家

 

  初代 建武館館長

 

 

  合気拳法 八段範士

 

 

  杖  道 八段範士

 

 

  居合道  八段範士

 

 

  剣  法 八段範士

 

全日本抜刀道連盟

 

 

  八段範士

 

  副会長 審判部長 理事

 

 

 

國際抜刀道連盟

 

 

  七段教士

 

  公認審判員 理事

 

 

  千葉東金支部

 

 

  師範代

 

 

 



館長年表

昭和12年2月4日 赤城、榛名、浅間山下ろしの寒風厳しい

 

群馬県富岡市(当時 小野村)に生まれる。 

 

昭和27年 中学卒業後、貧しきため進学できず、昼間働いて

 

夜間高校へ通うため東京神田の製本工場へ。 

 

仕事、残業、学校、学費すべてにおいて苦労した少年時代。

 

月給は3000円。盆休みに故郷へ帰った時、「ハイ、小遣い」と

 

500円を母親に渡すと、よほどうれしかったのか、母は隣近所

 

に見せて回ったという。 

 

昭和30年「自分の店なら自分の力を思い切り試すことができる

 

だろう」「苦しみもあろうが生きがいもあろう」と思い、親や

 

兄弟の反対を押し切って、当時亀有にいた叔父の口利きで東京

 

都足立区大谷田の肉屋に養子に入った。そして仕事を覚える

 

ために東京中で一番厳しい店を探してもらい、日暮里の大森肉

 

店へ修行に出た。

 

 


 

1年間みっちりと仕事を叩き込まれ、大谷田町の柴山肉店に戻

 

る。義父は傷痍軍人で目が良く見えず、いつも警戒心と猜疑心

 

が付きまとっていた。例えば、店のお金を盗むだろうと小銭を

 

置き去りにし翌朝一番に数えなおすといったふうだった。 

 

また、お腹をこわすと「食いすぎだ!」と1週間くらい食事を

 

させてもらえず、仕事をし続けるなど厳しい生活が続いたが、

 

初心を貫き一所懸命に頑張った。 

 

しかし、ある日義父の口から「俺はお前に財産をやるんだから

 

云々」と言われたことで、この2年間、死にもの狂いで頑張って

 

きた全てがガラガラと音を立てて崩れた。 

 

 

「俺は財産が欲しくて頑張ってきたんじゃない!」

 

数日後、次の仕事を決めて…早朝書置きを残して義父の家を

 

出た。


次の日には東京駅八重洲口(宝町)の肉卸会社で働いていた。

 

この会社は米軍基地と外国船に主に牛肉を卸しており、毎日

 

横浜、横須賀海軍、原木、横田、立川空軍等々、関東10か所

 

以上の基地へ朝から夕方まで納品とその食品検査の立会で充実

 

した毎日を過ごしていた。 

 

20歳の夏、品川区武蔵小山に小売りの店を出すことになり、

 

経験者の自分が店長に選ばれ、店内設備や営業のすべてを任

 

された。斬新なアイデアと若いスタッフで大繁盛。

 

 しかし、ある日、小売業の事を全く知らない社長から、米軍

 

基地納めの仔牛の残り肉を、利益を上げるために豚小間肉に

 

混ぜて売るように度々強く言われた。責任者としてこれ以上

 

お客様を誤魔化したくないと思い、店を出た。


 

再度日暮里の肉店で働きながら、ボディビルクラブ、空手道場

 

(松濤流)に通い、朝方3時まで頑張ったこともあった。 

 

24歳の時、神奈川県川崎市に家を購入し結婚し、東京目黒の

 

伊藤ハム会社に通った。夜は同じ流派の空手道場を探すが見つ

 

からず、川崎の真心流綜合武道場へ通い始めた。 

 

ある日から、道場の先生があまり技を教えてくれなくなった。

 

先生の奥さんがある時独り言のように言っているのを聞いた。

 

「空手をやっていた人は教えづらいそうね」とポツリ。 

 

それを聞いて、「心に空手があるからなんだ!」と思った。

 

他者から物事を教わる時は、心を白紙にしなければならないと

 

気付いた。心を変えたとたん、先生が熱心に指導してくれ、

 

段位も上がるようになった。

 

 

 

中央にいるのが私(24歳頃)、その左隣が館長の菅野静山先生。

 

両脇に師範の方々。川崎の道場にて。

 

 


 

昭和44年、7歳、3歳、3か月の3人の子供達全員が、小児結核、小児喘息等醜い公害のために病院通いとなっていた。

 

3か月の子供などは「帰ってくるまで生きているかな」と思いながら出勤するほど。

 

そんなある日、「房総半島一周」という会社の慰安旅行へ行った。バスガイドが「この辺は空気が良く、自然に恵まれ、長生きする

 

人が多いので『長生郡長生村』と呼ばれています」と言うのを聞いて即決。早速帰宅後、松林を購入し転居。

 

転居後、子供たちの病気も2週間ほどですっかりよくなってしまった。

 

その後、地域に恩返しのつもりで、「将来を担う子供たちが 

 

武道を通じて、粘り強く信念の強い、優しく明るく元気な人に

 

育つように」との思いから、昭和46年、松林の現在の場所に

 

門弟小学生2名の建武館が誕生。 

 

その後ビニールハウス造りの屋根のある道場となった。 

 

昭和47年には24畳の一軒家を借りてより道場らしくなり、

 

その後、門人数が30人になった昭和50年には、50畳の道場が

 

完成した。

 

冬には香取神宮へ奉納演武(古典礼吟居合道)を行っている。

 

 

 

 


 

昭和54年、本部道場(川崎市)菅野善光静山宗家が他界。 

 

 

昭和55年、宗家代行に菅野弥生氏、

 

宗家後見役に清水石心斎先生と新藤磐山。

 

 


 

昭和55年秋、茂原小体育館で10周年記念大会開催。

 

昭和57年、館長が国指定難病「潰瘍性大腸炎」で入院。兄弟・

 

親戚はもう助からないと思い、葬儀の打ち合わせをしたほどだ

 

った。

 

昭和60年、同難病にて2度目の入院。入院中自分をよく見舞っ

 

て励ましてくれた患者さんが危篤になって運ばれる姿を見た

 

時、自分の健康を自分で維持することの大切さを痛切に感じ、

 

以来、自分なりの考え方で「人間も自然界の一部」と考え、

 

食べ物、水、心の持ち方の工夫、リラックス法等々試行錯誤

 

し、医師と相談しながら治療に専念。奇跡的に治癒。

 

千葉県茂原保健所「難病を励ます会」で講演したこともあっ

 

た。

 

 


 

昭和61年10月5日、茂原市立体育館で創立15周年記念大会

 

開催。

 

 

平成3年10月、創立20周年記念大会開催。門下生は500名を

 

超えた。

 

 平成5年、建武館新道場が完成。 

 

平成10年10月18日、第22回全日本抜刀道連盟選手権全国大会

 

に飛び入り出場。

 

4段以上無差別級に「退路を断って挑んだ」結果、優勝。

 

現在、玄関に掲げてある写真。平成5年の新道場完成の際に

 

撮影されました。